礼儀は人と人との付き合いから社会の隅々に至るまでなくてはならないものです。また、あなた方の多くはこれから宇宙の多くの知的生命体と直接または意識の中で交わることとなるでしょうがどこの世界に行っても礼儀は必要なのです。そして礼儀の基本は精神世界においても物質世界においても変わることはないのです。
なぜ共通なのでしょうか。それは「礼儀の根源は遠く天のかなた(上天)にある」からなのです。全ての生命体が上は上天に、下は全ての天地・宇宙に存在するさまざまの形、あらゆる物事(万象)に対して礼儀正しい態度の備えを常にしなければならないのです。あなた方が進化の道を進み始め、その時期が来たから伝えるのです。出来るだけあなた方にわかるよう優しく伝えます。しかし精神世界ではこの伝えとは比べ物にならないほど厳格で厳しいものであることは覚えておいてほしいのです。ここで述べる礼儀は少なくともあなた方が持ってほしいと私が願うものです。
(1) 礼儀は自ら自然に湧き出るものであり際限がないものです。
押し付けるものではないのです
あなた方の礼儀は型にはめて厳格に行っています。はたして礼儀は一つの型にはめて厳格に形を保たなければならないのでしょうか。創造主はそんなことを考えて礼儀を定めたのではありません。礼儀は決して強制強要されるものではなく、だれかに強要するものでもなく、行為が自らの内外に自然に現れて来ることが必要なのです。自然でなだらかで優しいものでなければならないのです。だから礼儀は際限がないのです。誰も型を決めることはできないのです。これは礼儀においてとっても大切なことなのですが、あなた方は型にはめて部下や子供に押し付けています。
礼儀とは、好い機会に、丁度好い頃合に、自分の置かれている立場をよく理解した上で、誠意をもって目的を成し遂げることに意を酌まなければならないものなのです。
ですが、あなた方の世界では、政党や支配が変わるたびに礼儀の仕方も変えている場合も多々ありますね。最近あいさつの仕方をこうあるべきだと児童に教えようと国や学校が決める報道が聞こえます。とんでもない思い上がりは目を覆いたくなります。日本の戦前の素晴らしい教えさえどこか行ってしまったようでさみしく思います。
礼儀は教育の対象になるのでしょうか。礼儀は社会生活上必要なものですから無知では困ります。だから子供から大人に至るまで社会の付き合い上ある程度基本になることは必要でしょう。しかし指導者が信者をコントロールしたり、大衆を支配するために礼儀と言って偽りの礼儀を教え込む場合も多いのです。一番困るのは礼儀がなんなのか全く分かっていない者が、俺は偉いので偉い立場から礼儀はこうあるべきだと言って周りの物を引き込んで礼儀を決めることです。これには特に注意しなければなりません。これは神をも冒涜する行為なのですから。
礼儀はもともと自ら自然に湧き出るものでなければならないのですから無限に変化します。だから教育の対象にならないのです。教えなくてはならないものでなく、また教えられるのでもないのです。どうしても教えるなら私がいま言ったことをそのまま教えなさい。
礼儀は常識や理性で判断すると思い込みにより誤りに気付かずに知らず知らずに迷宮に入ってしまう場合があります。礼儀は叡智以上の存在物であり、人が都合で勝手に変えるのではないと肝に銘じておくことが必要なのです。そうすると、特別に礼儀云々との教えを請わなくても、いつでもどこでも礼儀ある態度で相手と接することが出来るのです。
(2) 礼儀は科学の性質を持っています。
礼儀は1面において神性、宗教性を持っています。しかし他の1面に置いては科学的性質も持っているのです。突き詰めると絶体絶命の力を持って自らを現すものであるのです。これは叡智や理性に関わるものであり、綿密な感覚、洗練された教養、豊かな常識など、これらのものを如何に練り合わせても真の礼儀を形成することはできません。礼儀を習うということは、礼源(礼のみなもと)に至らずしては絶対に不可能なのです。
一度礼源に接することができれば自ずとわかるようになります。どうすれば礼源に接することが出来るのでしょうか。そんなに難しく考えなさんな。あなたのところに初対面の誰かが訪ねてきたとします。どのようにあなたは相手から接していただきたいですか。相手が会社の社長だったらどう接していただきたいですか。外国の未開地にあなたが行った場合に裸の相手とどのように接したらいいと思いますが。わかりましたか、相手をまず考えるということです。このことは何万光年離れたところの惑星の住民と接する場合であっても、身近な彼女と接するときでも同じと思いませんか。礼儀を行うときは心と心を通じ合わせることに意をくみなさい。俺は偉いんだと思うからすれ違いが起こると思いませんか。ここに科学の性質があると思いませんか。
(3) 礼儀は芸術性があるのです。
礼儀が根源において神性、宗教性、科学性があることがわかれば芸術性も推しはかれると思います。冠婚葬祭や初対面の相手、偉い人に面会するとき、見知らぬ人と会う時など失礼がないようにと考えて四角四面に行えば礼儀にかなうと思ってそれを実行し続けることは白紙に墨を塗るようなものです。礼儀は天衣無縫で見るからに美しく聞くほどに雅やかな先天の芸術性を保有しているからです。
礼儀は天藾の妙音を耳にするように人の心を爽やかにするものです。また百花繚乱の花園に踏み入るように満目の美を讃うるものでなくてはならないのです。その美しさにおいて、妙律、風雅においても限りなく種類があります。この限りなさがとても大切なのです。
王朝の礼(※)がいくら素晴らしいものでもそれをまねして式典などを行うべきものではありません。
公人私人いかなる場合の礼であれ、また世界がいくら広くてもその表現の美はそれに応じて変えることはとても大切なことなのです。この配慮なければどのような立派な礼儀に見えても醜くいものとなってしまいます。
神に対しては神の礼、人には人の礼、山川草木には山川草木の礼、殉職・殉難された人に対してはその人と遺族双方に対する礼、海女のさえずりさえそれは昔から引き継がれている彼女らの海女という世界で生きるため、体に対する呼吸を通じた礼儀に間違いはないことを心に留め置いてほしいのです。
音楽を奏でること、絵を画くこと、これらだけが必ずしも芸術ではないのです。家庭において、職場において皆心すれば己の顔を通じ、己の言葉を通じ、己の手足振る舞いによって練磨を要しないで芸術創造の秘蹟に参与することができます。これすなわち礼儀です。これすなわち芸術であり、同時に人間の行為でもあるのです。
※ 天皇家の各種儀礼、式典などは精神世界の写しである。それを素晴らしいといって似せた形で行うことは無礼であるばかりか前記1、2に背く行為であるのです。
(4) 礼儀の対象とは何なのでしょうか。どう行えばよいのでしょうか。
礼儀は人間同士のことにだけに留まるものではないのです。上は上天の常に私たちを思い導いて生命体に対し、下は一握りの砂や草木に至るまで、すなわち全ての宇宙を礼儀の対象としなければならないのです。人間の従来の礼は形式に終始していました。下位の者に対する愛の礼(敬愛)を欠いて、上位の者が自分の偉さを誇らしく思っていました。いや、それが礼儀と勘違いしていたこともあるのです。しかし、愛の裏付けとして無限の敬の礼を伴わなければこの愛は侮辱の愛となってしまうのです。
人間の世界において上位、同位の者にも下位の者にも礼を尽くすことは同じでありますが、時処により愛の位置を調整しなければなりません。その時その時に応じて変化しなければなりません。対象が変われば(時間も感情も含めて)相対的に対応しなければならないということです。
(5) 自分自身に対する礼と他に対して行う礼儀についての心構え。
礼儀の成り立ちの源、礼源は九天のかなた、天の最も高いところにあります。全宇宙に通じるものなのです。そのようなわけで人間も対象であるのですから自らも礼儀の対象としなければならないのです。自分に対する礼儀(自敬慈愛)が一切の礼儀の前提条件であると心してください。
この宇宙の次元のはざまには宇宙連合ソ・ラーラの管理する「西の星」と呼ばれる宇宙船が浮かんでいます。この宇宙船の動力と機能については、「日本人のルーツ本篇の宇宙船に乗ってみよう」に書きました動力・機能とはかなりかけ離れいています。そのような宇宙船を管理する、何千万年も生きて任務についている強く偉大な精神の持ち主であるソ・ラーラ(この方はどちらの性の意識も持ち合わせているような感じが強くしますが、私は女性という意識が強く感じらます。)とあなたが面会したらあなたはどうしますか。
何も迷うことはありません。恐れることもありません。心を込めて普通に接すればいいのです。ソ・ラーラさんも心を込めてあなたに普通に接してくれるでしょう。
今までの礼は礼源を知らず、他礼に終始していたところから無理が生じていました。自礼の心眼が開くと、自ら複雑微妙なる他礼もいともたやすく掌握することができるのです。あなた方のほとんどは、現在背後に創造主を見ずに唯一社会、上下に対して礼儀が存在すると誤解盲信しているからいつまでも形だけの礼しか出てこないのです。
草木禽獣の表面だけを見ているから真の礼儀は出てこないのです。神は創造主のみです。いかさまの神を信じてはなりません。精神世界であろうが物質世界にあろうが人間は神ではなく神の一部となって誠心誠意創造を行うことを忘れてはいけないのです。さすれば自然と他への礼儀も行えるはずです。他への礼儀は己に対する礼儀でもあるのです。
今一番問題なのが、創造主以外のあまたの神を信じる者が その神が言ったわけではないのに あたかも神が言ったように礼儀を解くことです。何もわからない教師が子供たちに四角四面の礼儀を教えることです。上司が会社の礼儀はこうあるべきだととんでもない馬鹿な教えを行うことです。これを聞いたあなたはこれからはこういう礼儀は信用しない。教師も上司もくそくらえ。と言ってこれを無視した場合それは正しいことでしょうか。この中に真の礼儀が含まれていることも多いのです。それを見極めるのはあなたの責任です。見極め、それを自分のものとできればあなたは人生の上で素晴らしい進歩をすることになるでしょう。ここで宗教のいう「神」については外しました。その意味はあなたが考えてください。
(6) 礼儀の位とは何でしょうか。
どのような位があるのでしょうか。
礼儀は一つであり多数であります。多数であってもそれを突き詰めれば一つです。これこそが宇宙の決まり事ですが、そういってもわからないだろうからあえて区分してわかりやすく説明することとします。
① 礼儀の下位
今までは儀礼は会社の上司、自分より上位の階級の者、先生、先輩、組織の指導者など上位に対して行われており同位と下位の礼儀は忘れていました。いや、社会がそのようにさせてしまっていたのです。しかしよく考えてみてください。創造主は皆を分け隔てなく創造し、皆は創造主の手足となって創造活動に参加しているのです。とういうことは皆平等なのですよ。上と下という立ち位置だけが異なるというだけの話なのです。だから礼儀の位とは上も下もなく同じものなのです。あなた方が強弱の関係によって作り変えてしまったものなのです。これは礼儀の縦と横の軸のみに終始してしまった結果とは思いませんか。本当の礼が敬愛の無限の表現であることを知らなかったからなのです。礼儀は全てのものに平らに(平等とは言っていません。)施さなければならないのです。
一つの例として、喉が渇いた時の一滴の水はほんとに甘い美味しいものです。水は飲まれて本懐を遂げ役割を果たしたと考えるでしょうか、我々は水を人間より下のものとみなすでしょうか。そうではないでしょう。人間の70%は水なのです。水は多くの健康な物質をあなたの体に運んでいます。それを考えればたとえ水は下位のものとみなしても、私たちに文句も言わずに尽くしてくれているのです。ということはあなたとどこが変わりますか。あなたと同等以上ではありませんか。だから礼を持って応えなければならないのは明らかでしょう。
礼儀の同位とは人間同士とか階級が同じとか同じ仲間とか、そういう意味ではないのです。
山川草木砂の一粒等一切のものは礼儀のうえにおいては同位として礼を尽くすことが必要なのです。 一つの例として、本棚の書物は自分より下位として扱っていると思いますが、いざ本棚から取り降ろして読む場合には自己と同位者として扱かうのが書物に対する礼儀です。我々が本を読んでやるというのではなく、本のおかげで知識を養うことができると考えることなのです。皆さんは養蜂家のミツバチを見たことがありますか。木陰にたくさんの巣箱が置かれていますね。ミツバチは菜の花などの花から蜜を集め、受粉もします。人間はこれを管理しているのですから当然人間はミツバチの上位にあたるかもしれませんね。でもこれは本当でしょうか。ミツバチはあなた方の食料の多くを提供しています。あなた方よりひょっとしたら上なのではないでしょうか。よく考えてみてください。お互いに助け合ってますのにどうしてあなた方より下位なのでしょうか。どのように考えても同位でしょう。だからミツバチに対しては同位の礼を行うべきなのです。すると人間関係から動植物まで全て同位の礼を行うべきだということがお分かりと思います。
③ 礼儀の上位
上位というのは必ずしも上位ではありません。上位というのは向こうからいただく位が偉いのであって己はちっともえらくないのです。偉くないが偉い位をいただいて位に相当したご奉仕をさせていただくその時に本当に自分の位が上がるとあなた方の世界では言う方もいますが、そんなことは関係ありません。そんなこと感じるのは思い上がりも甚だしいことです。己が偉いと思ったらそれでおしまいです。
以上の説明でお分かりと思いますが、本当は位の上下などどうでもよいのです。そう感じたその時、あなたの前には天の法則が厳然と現れるものです。
礼儀というものはまさにやさしく簡単なものです。難しく考えてはいけません。
しかしこれを絶対の権威と称して逆にやるから虚礼になるのです。着衣どころか礼儀と思って誤った礼儀を尽くすから無礼になるのです。私利私欲が絡んでいるからそうなるのです。愚かを通り過ぎた愚かというほかないのです。先ず私欲を捨てましょう。我あると思ってはいけません。天地あると思いましょう。静かに創造主の言葉を聞きこれを行うとき、この形を礼と言います。礼儀は之に尽きるのです。
※礼儀の上位、中位、下位についてはあまりにも崇高な教えであって具体的にどのようにしたらいいのか困惑しています。必ずしもこうなるとは限らない。混在していることもあるのでは。どこで上中下を区分したらいいのか。そう思っていた2019年3月10日の正午ごろ、「ワシントンにある海軍博物館のアーレイバーク展示品の中で各国から贈られた勲章の中に日本の天皇陛下から贈られた勲章がなぜ展示されていないのか調べてみなさい。それですべてがわかる。そこに上位、中位、下位が共存している。親切には親切で返すのは礼儀としてとても大切なことです。」とのメッセージがあった。私の調べたことについては、最後に、「親切には親切で返す」という項目で書き留めました。
(7) 日常生活においても常に礼儀の心構えをすることは大切なことです。
それでは、儀式や礼式、冠婚葬祭という集団の礼儀ではなく個人の日常生活において具体的にどのような心構えを持って礼を尽くしたらいいのでしょうか。基本は今まで述べた通りですが少し考えてみよう。個人個人、会社の社長や従業員、政治家や宗教家等等さまざまに異なると思いますがせめて次のこと位は心構えとして持っていてもよろしいかと思います。
① 朝あなたがめざめてから、一呼吸おいて毎日の生活の場に移る間も礼儀の心を持つことは大変大切なものなのです。覚めてから夜床に就くまで礼儀の連続であると心に深く感じてください。眠っていても礼儀を尽くすのが本当であります。なぜかというとそれは寝ている間あなたの魂は精神世界に、より強く通じている状態になっているからです。もちろんこの世には寝ることのない非常に高等な生命体はいますが彼らは普段から精神世界と深く通じているのです。
まず朝目覚めたとき、すぐに戸を開けたり、食事の支度をするのではなく、ほんの一時でいいから静かに布団の上でも椅子の上でもいいから座ってみましょう。今生きていることに感謝し、自分の肉体である魂の着物に感謝し、向こうの世界にいるあなたの本体(実体、魂)に感謝し、そして自らの体の気を整えてから立って毎日の行動に移してみましょう。そうすればその人の生涯は輝ける生涯を送ることができ、この世の英雄として栄光に満ちつつ天上にたどり着くことでしょう。
② 人が衣服をまとうのはなぜだろうか、差恥心から裸を隠すため、芸術的服飾美の発現、体の保護等々、しかしその後ろに潜むものは何でしょうか。衣服をまとうことは天の装いと同じなのです。むしろ天の装いと言った方がいいでしょう。
「私の来ている着物はこんなにも綺麗で高価だったのよ。」といって綺麗で高価な着物を着た人が実際自分の心がちっとも高くないのに他人におごるような行動をとることはその人の着ている服装は当然劣悪の極みと言ってもいいでしょう。どのような服装を着こなしたらいいのか全て相対的であり、一つに決めることはできませんが、あなた方が虚飾を装っていれば霊界に行くとみんな脱がされて素っ裸にされ、心のうちに閉じ込められている今までの行為も全て露わにされるので、見ていていつも気の毒に思っています。
人間はその内分に応じ服装が決まるのであるから心を磨くことに心がけてください。なぜなら衣服は天地の物であるからです。体も天地の物であるからです。だから着物を着るとき、脱ぐときそれは全て天地の行為でありそこをわかって感謝の気持ちを持たなければなりません。
③ 服装新調等の心得、礼儀についてお話ししましょう。しかしこれはあくまでも例示です。あなた方の生活全てにおいてこの例示を当てはめてください。
自らの霊魂の内分を着物で表すと己の分以上の物を着たらはずかしがらなければならないのです。何のために着物を買うのか。その資格があるか。わが身にふさわしいものを着ることを学ぶべきです。こういう着物を今日から着させていただきますが一日も早くこれを着る資格が出来るよう努めてまいります。と心に念じ、生を受けて着ることができることに感謝しなければなりません。質素でいいから身なりはきちんとすることです。
また、着物の繕いは早め早めの繕いが必要です。悪事に走ってしまった後で善を取り戻すことが難しいのと同じです。着物も破れてしまってからは元に戻すのが難しいのです。人間も心が破れぬうちに手入れするものだと自分に言い聞かすことです。
暖かな、親切な、荘厳な、清らかな、奥深く優しい気持ちで縫い始めた着物はその人の思いがしみこみますから着る人にその思いが伝わっていきます。
に下着や衣服を渡すときにどうしていますか。自分で衣服を着る時にはどうしていますか。せめて
このくらいは心がけてください。
下着やセーターなどを渡すときに、折りたたんでいなければその場で折りたたんで渡しましょう。
それが着物に対する礼儀であり、旦那さんに対する愛情でもあるのです。旦那さんに愛情を持てな
くても着物には礼儀を示してください。子供はあなたのその振る舞いを見ていますよ。また、自分
で着物を洗濯した場合には一旦収納ケースにしまうことが多いと思います。その場合にはきちんと
折りたたんでしまいましょう。
(8) 相手方を呼ぶ場合に心しなければならない大切なこと。
この地域、どこの民族、どこの宇宙に行っても人間の価値は財産、地位、知名度などに一切関係なく同じです。人間は誰でも同じに扱わなければならないのです。普段の生活においての近隣の人々との交流においてしかり、遠い国の民族との交流においてしかり、一人一人の呼びかたに差をつけてはならないのです。ある人に対しては〇〇さま、別なある人に対しては見下したように××と呼び捨てにするようではならないのです。これは初対面の人に対しても同じです。××と呼ぶ場合には常にわが子を呼ぶような愛情を持った気持ちで呼ぶべきです。したがって相手と対面したときの挨拶は人によって差別すべきものではないのです。また、ことさらうやうやしくすべきものでもなく簡素でよいのです。しかしこれほど困難なものはないでしょう。この天の川銀河宇宙でプレアデス/プレアール人のなかのエラ民族の精神は極めて高度に発達していますがそれでも発展途上の民族なので完全ではないのです。
しかしよく考えてみると、現実には相手方の行為により被害者としての立場に立つ場合にはそこまで理解して行動することが難しいのはよくわかっています。恨むことは当然なのです。でも時が来たら少なくともそこに向かおうという気持ちでいいから持ってほしいと思います。この気持ちはとても大切なことなのです。
相手に対しては親しみを込めて名前を呼んでみよう。ただこの宇宙には個人的に名前を付けない民族や血統で呼ぶ民族もいます。名前はあっても声を使わない民族もいます。それであっても相手に対しては名前を付けて友情を示すのが宇宙における礼儀なのです。
(9) 親切には親切で返す
ここからの話はアーレーバークアメリカ海軍大将と日本人の日本海軍駆逐艦艦長の未亡人との話になります。アーレーバークは太平洋戦争中、駆逐艦隊司令官として太平洋の各地を転戦したようです。詳細までは分かりませんが未亡人の夫も駆逐艦の艦長として相対したかもしれません。彼は日本人を「黄色いサルども」と呼び毛嫌いし、反日・嫌日家としての態度を強くとっていました。戦時中捕虜となった草加中将が武士道を貫いたことから好感を持って彼と接し、後に海上自衛隊創設に大きな支援を行った人物でもある。
朝鮮戦争が勃発すると極東艦隊参謀副長として日本に派遣されました。しかしその時でさえ、反日・嫌日家としての態度を強くとっていたことから、ホテルに到着しても、ホテルの従業員が接しようも一切拒絶していたようです。その態度が一変し、親日家としての態度をとるようになったなかの一つの話を書きました。
バークはホテルに宿泊して昼間は極東艦隊参謀副長としての任務を果たしていました。ある日ホテルの部屋に戻ったところ、コップに花を1輪さしておいたはずの花がかわいらしい花瓶に生けてあることに気付き、不審に思って受付カウンターに行って、だれがこんなことをしたんだとホテル従業員に文句を言いました。日本人のサービスはいらないという剣幕でした。ホテル従業員も生けたのはだれかわからずその時はそれで済みましたが、来る日も来る日も真新しい花が数輪生けてあるのです。そこで今度は、受付カウンターに怒鳴り込みました。数日後、その花を生けたのはバークの部屋を担当するベッドメイク(客室清掃)であることがわかりました。彼女は安い給料の中から花を買って毎日生けていたのでした。当然その行為はバークに知れることになり、ある日バークは彼女にチップを渡そうとしたのです。行為に対するお礼としてチップを渡すということはアメリカでは当然の行為でした。しかし彼女はこれを毅然と断りました。「バークさんの部屋を担当する私としては当然のことです。」と。
そこでバークは知りました。彼女の夫は駆逐艦の艦長で前の戦争でアメリカ軍と戦い撃沈されたことを。バークは太平洋戦争中駆逐艦の艦長でもあり、多くの戦いに参戦してきました。部下が戦死するたび日本人を恨んでいきました。それが日本人嫌いの大きなウエイトを占めていたのでした。しかし彼女は語りました。「夫は戦争という中で立派に戦って死んだのです。だから私は敵方であるあなたを恨んではいないのです。あなたがこの部屋に帰ってきて1輪の花を見て疲れが癒されるならそれでいいんです。それが部屋を任された私の務めです。」と。
その行為はず~と続けられました。バークは彼女がアメリカ人である私を嫌わずに心を込めてもてなそうとする心に、やがてとても日本と日本人が好きになっていったのです。そして戦後の苦しい時期にとても多くの支援を日本に行いました。
彼は1996年1月1日に94歳でベセスダの海軍病院で亡くなりましたが、彼の遺志により葬儀の際に遺体につけられていたのは天皇陛下からいただいた「勲一等旭日大綬章」のみでした。彼女の心を大切にし「日本人と日本が大好きだよ」と言わんばかりに日本の勲章のみを身に着けて第二の人生(あの世)に向けて旅立っていったのです。そのためワシントンにある海軍博物館のアーレイバーク展示品の中に本物の「勲一等旭日大綬章」だけが存在していないのです。
次回は「アルクトゥルスの意識」です。アルクトゥルス回廊を理解するうえでとても大切なことなのです。
アルクトゥルの人の生活・文化等については「アルクトゥルスの風」に掲載しています。下記URL又は青字をクリックしてください。
http://aborizinino.livedoor.blog/archives/15174713.html
アルクトゥルスの風(人類の誕生と地球の未来)第一部 : アボリジニの歴史と文化1000万年の軌跡